かなり古いんですが、先日小説「青の炎」をやっと読み終えました。
後半、読んでいて胸が締めつけられて、とても辛かったです。この小説は犯人探しの推理小説ではなくて、犯人側の視点で書かれているので、犯人の心理がわかるんですね。あらすじは主人公の男の子が家族を守ろうとして殺人を犯し、それをだんだん後悔し始めるんですが、そのときの描写が非常にせつないんです。もちろん自業自得なんですけど、でもできることなら過去にもう一度戻ってやり直したいと、切に切に願う少年がほんとおおにせつない・・・。正直、途中でもう読み進めるのやめようかと思いました。
実はわたしも人を殺す夢をよく見るんです。そして、嗚呼とりかえしのつかない事をしてしまったと嘆いてるところで目を覚まして、ああそうか・・・夢だったか。ほんとうによかった。俺はまだなにもとりかえしのつかない事をしていない世界で生きていけるんだ。なんて胸をなで下ろすんです。ほんとうによくとりかえしのつかない事をするんです夢の中で。
そういえば、これもせつなかったです。漫画「寄生獣」でシンイチが、自分のお母さんが死んだのを再確認するところ。母親を殺して体を乗っ取ったパラサイトにシンイチが胸を刺されて倒れ、次の日なんとか死なずに目覚めたが、自分の刺された傷を見て、「夢じゃ・・・なかったのか」というあのシーン・・・。
人生というのは、ほんとうに残酷なことがあるものです。誰だってあるでしょう、例えば昔本当に好きだったけど別れてしまった恋人の写真を見つめて、もうあの頃には戻れないんだと嘆いたり。
わたしはもっとひどい体験もあります。20代前半の頃、原付バイクに乗っていたことがありまして、そのときに自分の不注意で車にはねられたことがあるのです。あとから聞かされた話だと、7mも吹っ飛んだそうです。それで地面に叩き付けられて虫の息で数分後に救急車に乗ったんですけど、その救急車の中でやっと意識が正常に戻ってきて、あれ?もしかしてこれ現実なの?おれほんとにはねられたの?そしてこのまま死んじゃうの?これで人生終わり?あれ?あれ?って、あのときはほんとおおおにせつなく悲しく寂しかった。いまにも自分の見ている視界がテレビが消えるみたいに何もなくなって、「無」になってしまうんじゃないかと思って。結局なんとか助かったんですが、肝っ玉が小さいので過剰にビビッてしまいました。
本の話にまた戻りますが、わたしは感情移入しやすいのか、フィクションだとわかっていてもとても辛くなるんです。なのでじつはテレビ番組などの「どっきり」系も見られません。ああいう番組ってかなり精神的に追い込むじゃないですか。だからだまされてる人があまりに可哀想で見ていられないんです。
あと「ロンドンハーツ」の「ブラックメール」もひどかったなあ。あれも一切見られません。なんでみんなあんなの直視できるんでしょうか。ちょっと無神経すぎるんじゃありませんか?バーバリアンじゃございませんか?
この世界から悲しい事がなくなる日は、きっと来ないでしょう。しかしわたしは信じています。全ては因果応報からなりたっていて、けして誰にでも偶発的に悲しいことが訪れるわけではないと。ようするに、悲しみを招いているのは自分で、やりようによっちゃあ悲しい事が訪れないようにもできるのだと。「悲しい事」というのは、ようは「自分が悲しんでしまう事」ですから、一番簡単なのは悲しいことを悲しいと感じなければいいんですよね。
親が死んでも、恋人にフラれてもけして悲しまない。こんな事を言うと、それで人間と言えるのか!なんて言う人がたくさんいます。まるで悲しむことを望んでいるかのようです。悲しんだ分だけ人に優しくなれる、なんて歌もありますし、わたしもその通りだと思いますが、じゃあ一生悲しみに怯えながら生きていくのでしょうか。
わたしは今年で35歳になりますが、そろそろ悲しみとは縁を切りたいと思っています。現実をしっかりと正面から見つめ、何事にも同時ない静かな「凪」のような心を持ちたい。きっとあなたが死ぬときには、わたしはあなたの死を悲しまなくなっているかもしれない。そのかわり、また生まれ変わるあなたがもっと幸せであるようにと、祈ってやろう ほととぎす
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