2015/09/23
バンコクで柔道
奥さんの調子もだいぶ良くなったので、先週月曜から一週間ほどタイのバンコクに一人で行ってきました。8月頃に爆弾事件がありやしたが、なんのそのと思って行ったら、他にもなんのその思って来ている日本人がたくさんおりました。男性の団体客がたくさんいて、みなさん綺麗なタイ女性を買われて、お互いに自慢し合っていました。変な病気をもらいたくない奥様は、くれぐれも旦那さんをバンコクに行かせないようにしてください。
今回私の目的は柔道でございました。先日香港に行ったときに友達になりました、バンコク在住のタイ人の「チュンさん」が、ぜひバンコクにも練習に来てくださいとおっしゃってくれたので、じゃあお言葉に甘えてと一人で行ったわけです。
練習は水、金、日曜の夜にありました。水・金は「Dhurakij Pundit 大学」という所の柔道部の練習に参加させてもらいました。郊外の方にあるので、一人で辿り着けるか不安だったのですが、チュンさんが街で私を拾って、車で大学まで乗せて行ってくれました。
部員は15人ほどいましたが、半分は「バンコク大学」の学生だそうで、いつも合同練習をしているとの事でした。黒帯の人は少なかったのですが、タイで黒帯を取るのは日本よりも数倍難しいみたいで、なるほど黒帯じゃない人もとても強かったです。そして先生も元タイ代表選手で、鬼のような強さでした。
みんな英語はあまり話せないので、直接話す事はあまりできませんでしたが、いつも手を合わせて「コップンカーップ」や「サワディカーップ」と笑顔で挨拶してくれました。日本人の礼儀正しさとはまた違った、すごく温かい感じがしました。
練習のあとは地元の料理屋で一緒に晩ご飯を食べましたが、みんなタイ語で何話してるのかわかりませんでしたが、料理はとても美味しく、辛く、そしてみんなコーラが大好きなんだなと思いました。
日曜日の練習は「Kasetsart 大学」という所の道場に行きました。チュンさんとバスに乗り約束の午後4時に道場に着いたのですが、まだ一人しか来ておらず、来る気配もないので畳の上で1時間くらい昼寝をしてやっと一人、もう30分後にまた一人で、結局5人だけで練習を始めました。しかも彼らは大学生ではなく、大学の教員二人と、他の道場で練習をしている社会人という、よくわからない構成でした。深くは聞きませんでしたが、おそらく学生は日曜なのでみんな帰ってしまい、しかしわざわざシンガポールから日本人が来てくれたのだから練習相手になってやろうという、そういうタイ人の心遣いだったような気がします。
しかしそんな事はどうでもいいくらい、遅れてきた二人は強かったです。準備運動もとくにせず、一組が乱取りして他の人はそれを見るというスタイルで、交代で乱取りをしました。みんな投げても投げられても笑いが絶えず、お互いの技を教え合う、とても良い練習でした。
練習後は、バンドの生演奏があるオサレなレストランで晩ご飯を食べてビールを飲みました。結局一人500BTHもかかりましたが、これはタイではかなり高級な食事の部類に入ると思います。そしてバスで来た私とチュンさんは終電に乗り遅れ、タクシーで帰りました。
そんな感じで3日間練習がありましたが、柔道着の洗濯などもしなくてはならなかったので、練習の合間でアユタヤかパタヤに遊びに行こうと思っていましたが、結局バンコクから出られませんでした。練習がない日は温泉に行ったり、土曜日はウィークエンドマーケットに行って、色々買い物したりしました。ゴーゴーバーも一回だけ行きましたが、全てが完全に想定の範囲内で、なんの驚きも興奮もありませんでした。今度は日本人カラオケに行ってみたい。
初めての一人での海外遠征練習という事で、色々心配でしたが、タイ人の友達もたくさんできたし、タイ語も少し上達したし、色々な技を教えてもらったし、素敵でハードな一週間でした。バンコクも含め、またどこか海外に練習に行きたいですが、柔道着持って行くのはほんとに大変です。海外での柔道着レンタル、だれかやってください。
今回私の目的は柔道でございました。先日香港に行ったときに友達になりました、バンコク在住のタイ人の「チュンさん」が、ぜひバンコクにも練習に来てくださいとおっしゃってくれたので、じゃあお言葉に甘えてと一人で行ったわけです。
練習は水、金、日曜の夜にありました。水・金は「Dhurakij Pundit 大学」という所の柔道部の練習に参加させてもらいました。郊外の方にあるので、一人で辿り着けるか不安だったのですが、チュンさんが街で私を拾って、車で大学まで乗せて行ってくれました。
部員は15人ほどいましたが、半分は「バンコク大学」の学生だそうで、いつも合同練習をしているとの事でした。黒帯の人は少なかったのですが、タイで黒帯を取るのは日本よりも数倍難しいみたいで、なるほど黒帯じゃない人もとても強かったです。そして先生も元タイ代表選手で、鬼のような強さでした。
みんな英語はあまり話せないので、直接話す事はあまりできませんでしたが、いつも手を合わせて「コップンカーップ」や「サワディカーップ」と笑顔で挨拶してくれました。日本人の礼儀正しさとはまた違った、すごく温かい感じがしました。
練習のあとは地元の料理屋で一緒に晩ご飯を食べましたが、みんなタイ語で何話してるのかわかりませんでしたが、料理はとても美味しく、辛く、そしてみんなコーラが大好きなんだなと思いました。
日曜日の練習は「Kasetsart 大学」という所の道場に行きました。チュンさんとバスに乗り約束の午後4時に道場に着いたのですが、まだ一人しか来ておらず、来る気配もないので畳の上で1時間くらい昼寝をしてやっと一人、もう30分後にまた一人で、結局5人だけで練習を始めました。しかも彼らは大学生ではなく、大学の教員二人と、他の道場で練習をしている社会人という、よくわからない構成でした。深くは聞きませんでしたが、おそらく学生は日曜なのでみんな帰ってしまい、しかしわざわざシンガポールから日本人が来てくれたのだから練習相手になってやろうという、そういうタイ人の心遣いだったような気がします。
しかしそんな事はどうでもいいくらい、遅れてきた二人は強かったです。準備運動もとくにせず、一組が乱取りして他の人はそれを見るというスタイルで、交代で乱取りをしました。みんな投げても投げられても笑いが絶えず、お互いの技を教え合う、とても良い練習でした。
練習後は、バンドの生演奏があるオサレなレストランで晩ご飯を食べてビールを飲みました。結局一人500BTHもかかりましたが、これはタイではかなり高級な食事の部類に入ると思います。そしてバスで来た私とチュンさんは終電に乗り遅れ、タクシーで帰りました。
そんな感じで3日間練習がありましたが、柔道着の洗濯などもしなくてはならなかったので、練習の合間でアユタヤかパタヤに遊びに行こうと思っていましたが、結局バンコクから出られませんでした。練習がない日は温泉に行ったり、土曜日はウィークエンドマーケットに行って、色々買い物したりしました。ゴーゴーバーも一回だけ行きましたが、全てが完全に想定の範囲内で、なんの驚きも興奮もありませんでした。今度は日本人カラオケに行ってみたい。
初めての一人での海外遠征練習という事で、色々心配でしたが、タイ人の友達もたくさんできたし、タイ語も少し上達したし、色々な技を教えてもらったし、素敵でハードな一週間でした。バンコクも含め、またどこか海外に練習に行きたいですが、柔道着持って行くのはほんとに大変です。海外での柔道着レンタル、だれかやってください。
2015/09/07
講習パート2
先日また柔道インストラクターセミナー・パート2に参加してきました。前回の3日間で終了だとすっかり思い込んでいましたが、もう2日間あったみたいで。
1日目の午前はメンタルスキルという事で、スポーツにおける精神のコントロールの仕方なんかを学びました。メンタルの弱い私にはとても興味深いトピックだったのですが、英語だったので案の定30%くらいしか理解できませんでした。もったいねーの極みでありますが、テキストをいただいたので、一ヶ月くらいかけて英和辞書片手にじっくり解読しようと思っています。
一つ印象に残ったのは、試合を前に緊張している選手に、コーチが「落ち着け、落ち着け」と言ったところで、どう落ち着いていいのかわからないので意味なし、という所です。これは希望を失った人に、周りの人が浅はかな言葉で励ますのに似ているなと思いました。
午後からは初心者向けの柔道レッスンの進め方で、二人ずつペアになってインストラクターの役になり、準備運動、受け身、打ち込みなどの、格基本運動をすすめていくというもので、わたしは20歳くらいのシンガポール人のベン君とペアになって、「乱取り」を担当しました。乱取りを始める前に、「乱取り」と「試合」の違いについて、みんなに説明をしなければならなかったのですが、もちろんほぼベン君にしゃべってもらいました。わたしは「投げられたら受け身で畳をバシッ!と叩いてね。その音が大きいと、投げた方がもっとスカッと気持ちがいいから。」とわけのわからない説明をはさみ、みんなの失笑を買いました。
2日目は「投の形(なげのかた)」の指導についてです。投の形とは、強さを競う競技柔道とは違う、正しい技の形を学ぶための形稽古で、黒帯を取るときに、必ずみんなこれを練習しなければならないのですが、なぜか私はこれをやった事がありません。役場に出生届を取りにいったらなかったみたいな気分です。講師の人も、黒帯を持っているのに形を指導できないというのは非常に恥ずかしい事です、と言っていました。という事で、そしらぬ顔で講習を受けましたが、未知との遭遇でなかなかおもしろかったです。
誰かが道場の隅でいつも練習しているのを見ながら、もう黒帯も取ったし昇段する気もないし、わたしには縁がないものだなと思っていましたが、実はこの投の形は非っっ常に奥が深いもので、今のMMA(ミックスマーシャルアーツ)ブームに対する自分の違和感を払拭してくれました。いわゆる暴力とは一線を画す武道のあり方のようなものを感じたわけです。もうこんな年ですが、ここに来てやっと武道というものの神髄に触れたような気がしました。たしかにこれをやらずして柔道を語るのはナンセンスというものでございます故、これから少しずつ練習していきたいです。
そんなこんなのハッチポッチステーションで、講習は朝9時から夜6時までみっちり行われ、家に帰ったときには疲労困憊で夜9時前に寝てしまいました。
1日目の午前はメンタルスキルという事で、スポーツにおける精神のコントロールの仕方なんかを学びました。メンタルの弱い私にはとても興味深いトピックだったのですが、英語だったので案の定30%くらいしか理解できませんでした。もったいねーの極みでありますが、テキストをいただいたので、一ヶ月くらいかけて英和辞書片手にじっくり解読しようと思っています。
一つ印象に残ったのは、試合を前に緊張している選手に、コーチが「落ち着け、落ち着け」と言ったところで、どう落ち着いていいのかわからないので意味なし、という所です。これは希望を失った人に、周りの人が浅はかな言葉で励ますのに似ているなと思いました。
午後からは初心者向けの柔道レッスンの進め方で、二人ずつペアになってインストラクターの役になり、準備運動、受け身、打ち込みなどの、格基本運動をすすめていくというもので、わたしは20歳くらいのシンガポール人のベン君とペアになって、「乱取り」を担当しました。乱取りを始める前に、「乱取り」と「試合」の違いについて、みんなに説明をしなければならなかったのですが、もちろんほぼベン君にしゃべってもらいました。わたしは「投げられたら受け身で畳をバシッ!と叩いてね。その音が大きいと、投げた方がもっとスカッと気持ちがいいから。」とわけのわからない説明をはさみ、みんなの失笑を買いました。
2日目は「投の形(なげのかた)」の指導についてです。投の形とは、強さを競う競技柔道とは違う、正しい技の形を学ぶための形稽古で、黒帯を取るときに、必ずみんなこれを練習しなければならないのですが、なぜか私はこれをやった事がありません。役場に出生届を取りにいったらなかったみたいな気分です。講師の人も、黒帯を持っているのに形を指導できないというのは非常に恥ずかしい事です、と言っていました。という事で、そしらぬ顔で講習を受けましたが、未知との遭遇でなかなかおもしろかったです。
誰かが道場の隅でいつも練習しているのを見ながら、もう黒帯も取ったし昇段する気もないし、わたしには縁がないものだなと思っていましたが、実はこの投の形は非っっ常に奥が深いもので、今のMMA(ミックスマーシャルアーツ)ブームに対する自分の違和感を払拭してくれました。いわゆる暴力とは一線を画す武道のあり方のようなものを感じたわけです。もうこんな年ですが、ここに来てやっと武道というものの神髄に触れたような気がしました。たしかにこれをやらずして柔道を語るのはナンセンスというものでございます故、これから少しずつ練習していきたいです。
そんなこんなのハッチポッチステーションで、講習は朝9時から夜6時までみっちり行われ、家に帰ったときには疲労困憊で夜9時前に寝てしまいました。
2015/08/28
香港合宿
先週5日間ほど、シンガポール柔道クラブの海外合宿という事で、香港へ行って参りやした。メンバーは全部で15人ほど、そのうち私を含めた外国人も5人ほどいました。
飛行機は初のシンガポール・エアラインでありました。しかも二階建ての飛行機でした。そんな飛行機あるなんて存じ上げませんでした。世界トップクラスの航空会社という事で、かなり期待をしていたんですが、サービスはたいした事ありませんでした。とくにアテンダントは、格安のエアアジアやタイガーとさほど変わらないと感じました。まぁたいした金も払ってないので、文句は御法度なんですが。
というのも今回の旅行は飛行機往復、ホテル4泊、食事代も全部カバーでなんと400ドルぽっきりという破格のプラン。シンガポール柔道クラブ、これまたあっぱれでございます。そんな金があるなら道場に箒の一本でも買ってほしいんですが。
香港は夏まっさかりで、ちょっと蒸し暑く、雨も少し降っていました。
初日は夜7時から、香港警察のスポーツセンターで練習がありました。子どもの頃からジャッキー・チェンの映画でよく見ていた香港警察と柔道できると言う事で、大変興奮しましたが、その日は韓国から金メダリストの方が来られていたので、その方が素晴らしい技を2、3教えてくれただけで、練習は終わってしまいました。ちょっと拍子抜けでしたが、その後みんなで写真を取りまくり、センター内のレストランで一緒に晩ご飯を食べました。
2日目、朝9時頃みんなで集まり、近くのレストランで点心(ティムサム)料理を食べました。とにかくアホみたく注文したので、みんなが腹一杯で箸を置いたあともどんどん来るので、残すのが嫌いな日本人代表の私が、しょうがなく最後まで食べ続けました。小柄なのにたいしたものだとみんなに褒められましたが、どうでもいいから手伝えと思いました。そのあと、ルームメイトと一緒に香港の街をブラブラし、トラムで山に登ったりして、帰りはちょっと風俗街にも寄って社会化見学をしました。ルームメイトはイスラム教徒でとても真面目な人だと思っていたのですが、実はなかなかそんな事もないのだよという事がわかりました。
その夜はみんなで韓国BBQを食べました。フランス人二人が来ておらず、どうやら有名なナイトスポットで飲んでいるという事で、食事のあと若い者だけでその二人がいるBARに行ってみました。二人ともすでにベロベロで片っ端から女性に声をかけていました。そこで一時間ほどまったりしたり踊ったりして、終電でホテルに帰りました。フランス人は残りました。
3日目もみんなで集まって朝食を食べたようですが、わたしは疲労が蓄積していたのでパスしました。昼からは一人で街をずっとブラブラしたのですが、ただただ疲れました。
そして夜7時に集まり、また香港警察の道場で、香港の色々なクラブの人達と一緒に、練習をしました。もうメダリストの人は帰ってしまったので、普通の練習でした。香港の人達はあまり大きい人はいなかったのですが、みんなとても元気があって、すごく積極的で良い柔道をしていました。わたしは乱取りを5本くらいしたのですが、どえりゃあ疲れました。今年一番良い練習だったかもしれません。
そのあと香港の人達と一緒にレストランで晩飯を食べました。みんなすごく打ち解けて、たくさん食べて飲んで笑いました。フランス人二人はまた酔っぱらって、帰り道ですれ違う女性全てに声をかけていました。ホテルに戻ってからも、しばらくして部屋のドアがノックされたかと思うと、缶ビールを持った二人が立っていました。しょうがないので、また部屋で一時間ほど飲んでから寝ました。
4日目は昼過ぎに集まり、電車に乗ってちょっと離れた所にある、違う道場を訪ねました。うちのクラブのメンバーの友達が、個人でやっている道場で、ちょっと小さい道場でしたが、香港人や欧米人やタイ人なども来ていて、国際色豊でした。そこでも乱取りを中心に1時間半ほど練習して、また写真を取り巻くりました。わたしは昨晩の練習のおかげで全身筋肉痛だったので、ソフトに練習させていただきました。
それからまた電車でホテルに帰り、夜7時から最後の晩飯という事で、ちかくの小さい食堂を借り切って、香港の柔道会の幹部の人達もたくさん来て、これまたすごい料理を食べました。カニから始まり、アワビ、帆立、ウナギ、おまけに豚骨にストロー突っ込んで骨髄液を飲まされました。さらに料理は次から次へと来るし、ビールとワインも飲まされるしで、3時間ほどしてやっとお開きになり、フランス人にまたナイトスポットへ行こうと誘われましたが、断って部屋に帰りました。ルームメイトによるとその夜の3時頃、またフランス人が部屋を何度もノックして来たそうです。おそるべし。
そんなこんなで5日目、朝9時にホテルを出て空港へ行き、13時発の便でシンガポールに帰ってきました。香港の人と交流できた事や、豪勢な料理を毎日食べられた事も良かったですが、なによりもシンガポール柔道クラブのメンバーと更に交流を深められた事が一番の実りでした。本当に行ってよかった。来年は中国の青島(チンタオ)に行こうと、もうみんな話してます。
飛行機は初のシンガポール・エアラインでありました。しかも二階建ての飛行機でした。そんな飛行機あるなんて存じ上げませんでした。世界トップクラスの航空会社という事で、かなり期待をしていたんですが、サービスはたいした事ありませんでした。とくにアテンダントは、格安のエアアジアやタイガーとさほど変わらないと感じました。まぁたいした金も払ってないので、文句は御法度なんですが。
というのも今回の旅行は飛行機往復、ホテル4泊、食事代も全部カバーでなんと400ドルぽっきりという破格のプラン。シンガポール柔道クラブ、これまたあっぱれでございます。そんな金があるなら道場に箒の一本でも買ってほしいんですが。
香港は夏まっさかりで、ちょっと蒸し暑く、雨も少し降っていました。
初日は夜7時から、香港警察のスポーツセンターで練習がありました。子どもの頃からジャッキー・チェンの映画でよく見ていた香港警察と柔道できると言う事で、大変興奮しましたが、その日は韓国から金メダリストの方が来られていたので、その方が素晴らしい技を2、3教えてくれただけで、練習は終わってしまいました。ちょっと拍子抜けでしたが、その後みんなで写真を取りまくり、センター内のレストランで一緒に晩ご飯を食べました。
2日目、朝9時頃みんなで集まり、近くのレストランで点心(ティムサム)料理を食べました。とにかくアホみたく注文したので、みんなが腹一杯で箸を置いたあともどんどん来るので、残すのが嫌いな日本人代表の私が、しょうがなく最後まで食べ続けました。小柄なのにたいしたものだとみんなに褒められましたが、どうでもいいから手伝えと思いました。そのあと、ルームメイトと一緒に香港の街をブラブラし、トラムで山に登ったりして、帰りはちょっと風俗街にも寄って社会化見学をしました。ルームメイトはイスラム教徒でとても真面目な人だと思っていたのですが、実はなかなかそんな事もないのだよという事がわかりました。
その夜はみんなで韓国BBQを食べました。フランス人二人が来ておらず、どうやら有名なナイトスポットで飲んでいるという事で、食事のあと若い者だけでその二人がいるBARに行ってみました。二人ともすでにベロベロで片っ端から女性に声をかけていました。そこで一時間ほどまったりしたり踊ったりして、終電でホテルに帰りました。フランス人は残りました。
3日目もみんなで集まって朝食を食べたようですが、わたしは疲労が蓄積していたのでパスしました。昼からは一人で街をずっとブラブラしたのですが、ただただ疲れました。
そして夜7時に集まり、また香港警察の道場で、香港の色々なクラブの人達と一緒に、練習をしました。もうメダリストの人は帰ってしまったので、普通の練習でした。香港の人達はあまり大きい人はいなかったのですが、みんなとても元気があって、すごく積極的で良い柔道をしていました。わたしは乱取りを5本くらいしたのですが、どえりゃあ疲れました。今年一番良い練習だったかもしれません。
そのあと香港の人達と一緒にレストランで晩飯を食べました。みんなすごく打ち解けて、たくさん食べて飲んで笑いました。フランス人二人はまた酔っぱらって、帰り道ですれ違う女性全てに声をかけていました。ホテルに戻ってからも、しばらくして部屋のドアがノックされたかと思うと、缶ビールを持った二人が立っていました。しょうがないので、また部屋で一時間ほど飲んでから寝ました。
4日目は昼過ぎに集まり、電車に乗ってちょっと離れた所にある、違う道場を訪ねました。うちのクラブのメンバーの友達が、個人でやっている道場で、ちょっと小さい道場でしたが、香港人や欧米人やタイ人なども来ていて、国際色豊でした。そこでも乱取りを中心に1時間半ほど練習して、また写真を取り巻くりました。わたしは昨晩の練習のおかげで全身筋肉痛だったので、ソフトに練習させていただきました。
それからまた電車でホテルに帰り、夜7時から最後の晩飯という事で、ちかくの小さい食堂を借り切って、香港の柔道会の幹部の人達もたくさん来て、これまたすごい料理を食べました。カニから始まり、アワビ、帆立、ウナギ、おまけに豚骨にストロー突っ込んで骨髄液を飲まされました。さらに料理は次から次へと来るし、ビールとワインも飲まされるしで、3時間ほどしてやっとお開きになり、フランス人にまたナイトスポットへ行こうと誘われましたが、断って部屋に帰りました。ルームメイトによるとその夜の3時頃、またフランス人が部屋を何度もノックして来たそうです。おそるべし。
そんなこんなで5日目、朝9時にホテルを出て空港へ行き、13時発の便でシンガポールに帰ってきました。香港の人と交流できた事や、豪勢な料理を毎日食べられた事も良かったですが、なによりもシンガポール柔道クラブのメンバーと更に交流を深められた事が一番の実りでした。本当に行ってよかった。来年は中国の青島(チンタオ)に行こうと、もうみんな話してます。
2015/08/17
Are you choking?
先週の週末、応急処置の講習会に参加して参ったんですが、これが本当にまいってしまいました。シンガポールで柔道インストラクターをするなら、この講習を受けなければいけないよと言われたので、ならばいたしかたないと思い、費用も柔道クラブで出していただけるという事で土曜日曜と参加したのですが、まず専門用語が難しく聞いた事がない単語がポンポン出て来ますし(辞書で調べてみると「過呼吸」とか「心筋梗塞」とかなじみのある単語なのですが)、参加者は皆シンガポール人の若人ばかりなので、英語が母語でないどころかド下手クソなのは私だけなので、説明についていくのが大変というか全くついていけませんでした。しかも朝8時から午後4時までという長い講習で、もうヘロヘロのズッコンバッコンでした。
もう二日目は行かないでパチンコでも行ったろうかなと思ったのですが、なんせクラブから180$も出していただいたわけですのでリタイヤもできず、しかも二日目は40問の筆記テストまであるというのでこりゃいかんと思い、帰ってから夜12時まで電子辞書片手に、もらったテキストを読み直して勉強しました。さらに心肺蘇生の実施テストもあると聞いたので、それもインターネットで動画を探して予習しなければいけませんでした。この不運な境遇を恨み叫び酒でも飲みたかったのですがそんな時間すらなく、仏頂面でひたすら勉強しました。
そして二日目日曜日、やや寝不足で緊張していたんですが、昨晩の勉強の甲斐あって一日目よりも説明がわかるし、心肺蘇生とAEDの使い方についてはほぼ完璧に把握し、実施テストにも余裕を持って挑めました。そして迎えた最後の筆記テストも、辞書を片手になんとか半分以上やって、残りは隣の人に見せてもらって結局まる写ししました。。。結果はまだですが、自分でやった所もほぼ隣の人と同じ答えだったので、まず問題なくパスできたと思います。
最初はいやいや参加したのですが、この応急処置というトピックは自分には非常に面白く、普段の生活にも役に立つ事がたくさんありました。今日もお茶を自分の部屋に運ぶときに、ちょっとこぼして手に熱湯がバッチャーとかかってしまったのですが、火傷はすぐに冷やすべし!冷やすべし!と即座に判断し、冷凍庫のアイスノンで数分冷やし応急処置を完了しました。これからもケガをするのが楽しみでしょうがありません。
2015/07/30
怖かった話
これは本当にあった怖い、とても怖かった話である。
今月4日、奥さんが急に高熱を出した。そして次の日の朝、様子がおかしくなっていた。意識はあるがまったくしゃべらない。これはおかしいという事で救急車で病院に運ばれた。私は奥さんが熱で記憶を失ってしまったんじゃないかと思った。なので搬送されてから5時間ほどして、やっと奥さんが口を開き、この人は誰ですかという先生の質問に「わたしの旦那」と言ったときはとても嬉しかった。そして奥さんは、そのまま入院する事になった。
その夜家族みんな帰ったあと、わたしはまだ一人で病室で寝ている奥さんの隣にいた。そして先生が来て検診をしているとき、急に発作が起こった。突然なにかしゃべり始めたかと思うと、体が硬直していき痙攣が起き、口から泡を吹いた。先生が看護婦を呼び、わたしは病室の外に出された。奥さんのベッドがカーテンで囲まれ、たくさんの看護婦がカーテンの中に出たり入ったりした。わたしは奥さんが死んでしまうと思ってとても怖かった。頼む誰かどうか奥さんを助けてくれ、と心の中で何回も繰り返した。
1時間ほどしてカーテンが開けらると、奥さんの体に色んなチューブがついていて、鼻にも酸素の管をつけられて静かに寝ていた。かわいそうで仕方がなかった。しばらくして目を開けたが、やはりまだしゃべりはしなかった。わたしは奥さんの手をにぎりながら朝6時まで奥さんの隣にいた。それから一度家に帰った。病院は幸いにも家から歩いて10分の距離だった。
3、4時間ほど寝てまた病院に行く用意をしていると、奥さんの両親が外から家に帰って来た。昨日の状況を説明しようとしたら、なぜか泣いてしまって言葉にならなかった。昼からまた奥さんの両親と3人で病室に向かった。奥さんはやはり昨日と同じ、体にたくさんの管をつけられていた。それを見たとたん、また泣いてしまった。とにかく奥さんがかわいそうで仕方がなかった。奥さんも泣く俺を見て静かに涙を流していた。
それから4種類の抗生物質を使った治療が始まり、奥さんは日ごとに回復していった。2日目は私の名前も言えるようになり、3日目には先生の質問にもゆっくりカタコトで答えるようになった。さらに数日経ち色んな検査も終わり、原因が生の食べ物からバクテリアが入り、それが脳の方に行ってしまったという事がわかった。奥さんは肉はほとんど食べないので、チャイナタウンで食べた魚の刺身に違いないと言っていた。
そして1週間以上経ちやっと退院する事になり、今度は自宅で抗生物質治療を続けた。しかし定期的にひどい頭痛がまだ続き、しかも今度は右半身が麻痺して全く動かなくなるという事態が起こった。3日ほど様子を見てみたが容態は悪化する一方で、また救急車で病院へ戻る事になってしまい、また再検査が始まった。そしてMRI検査で、左の脳が腫れていて、そのせいで右半身に麻痺が始まったという事がわかった。
その後も抗生物質の治療と検査を繰り返したが、一週間ほどいしてついに先生達は手術をすすめてきた。どうやら抗生物質が効かないようなので、もっとひどくなる前に手術でその脳の腫れ物を切除しようという事らしい。奥さんもそれでいいというので、わたしも奥さんの判断に従おうと思い賛成した。先生はそんな特別で異例な手術ではないので、問題ないだろうと言っていたが、やはり場所が脳なので、わたしはとても心配だった。
手術前日は病院に泊まった。わたしは何もできないが、なんとか奥さんを安心させてリラックスした気持ちで手術に望んでほしいと思った。しかし心の中では、もしかしたら手術が失敗して、もう奥さんと話す事はできないんじゃないか、という不安で押しつぶされそうだった。それが伝わってしまったのか、奥さんも手術に向かうときは少し緊張というか、覚悟を決めたような顔をしていた。寝台車に乗って手術室に向かう奥さんの後ろを歩いているとき、まるで死刑執行に向かっている死刑囚のような気持ちだった。そして手術室に入って行く奥さんを見送ったあと、やはりまた泣いてしまった。やはり奥さんがかわいそうで仕方なかったのだ。もしかして、これで目を閉じたら、もう二度と起きる事はないんじゃないか、そんな事を考えているのかもしれないと思ったら、どうにも悲しくてしょうがなかった。
そして手術は6時間以上かかり、ついに奥さんが手術室から出て来た。奥さんは髪の毛を全部剃られ、頭に包帯を巻いていて、そのまま集中治療室に運ばれた。そして先生は、手術は成功したから大丈夫だよと言った。2時間ほどして意識が戻ったがまだ話せる状態ではなく、また眠ってしまったので、私たちもその日はすぐに家に帰った。
次の日の朝、病院に行くと奥さんは起きて笑顔を見せていた。それからは驚くほどの早さで回復して、普通病棟に戻り、よく食べ、よく話し、携帯も使い始め、昨日ついに退院して家に帰ってきた。もう頭痛もないし、30分くらいなら散歩もできるようになった。めでたしめでたし。
しかし今でも、奥さんの寝顔を見ていると、あの時の事を思い出し、せつない気持ちになる。わたしの奥さんは本当に運良く回復してくれた。しかし病院では病気で苦しんでいる人、手術室の前で心配している人、泣いている人をたくさん見た。なぜ私たちはこんなにも苦しまなければならないのか。愛すれば愛するほど、その人との別れは悲しくなってしまう。なんと皮肉なことだろう。出会いがあれば必ず別れもある、その事をみんなわかって生きているのだろうか。私は今のまま生きていたら、本当の別れが来たときに立ち直れなくなってしまうだろう。だから少し生き方、考え方を変えなければと、心の奥のどこかで、そう思っている ような気がする。
今月4日、奥さんが急に高熱を出した。そして次の日の朝、様子がおかしくなっていた。意識はあるがまったくしゃべらない。これはおかしいという事で救急車で病院に運ばれた。私は奥さんが熱で記憶を失ってしまったんじゃないかと思った。なので搬送されてから5時間ほどして、やっと奥さんが口を開き、この人は誰ですかという先生の質問に「わたしの旦那」と言ったときはとても嬉しかった。そして奥さんは、そのまま入院する事になった。
その夜家族みんな帰ったあと、わたしはまだ一人で病室で寝ている奥さんの隣にいた。そして先生が来て検診をしているとき、急に発作が起こった。突然なにかしゃべり始めたかと思うと、体が硬直していき痙攣が起き、口から泡を吹いた。先生が看護婦を呼び、わたしは病室の外に出された。奥さんのベッドがカーテンで囲まれ、たくさんの看護婦がカーテンの中に出たり入ったりした。わたしは奥さんが死んでしまうと思ってとても怖かった。頼む誰かどうか奥さんを助けてくれ、と心の中で何回も繰り返した。
1時間ほどしてカーテンが開けらると、奥さんの体に色んなチューブがついていて、鼻にも酸素の管をつけられて静かに寝ていた。かわいそうで仕方がなかった。しばらくして目を開けたが、やはりまだしゃべりはしなかった。わたしは奥さんの手をにぎりながら朝6時まで奥さんの隣にいた。それから一度家に帰った。病院は幸いにも家から歩いて10分の距離だった。
3、4時間ほど寝てまた病院に行く用意をしていると、奥さんの両親が外から家に帰って来た。昨日の状況を説明しようとしたら、なぜか泣いてしまって言葉にならなかった。昼からまた奥さんの両親と3人で病室に向かった。奥さんはやはり昨日と同じ、体にたくさんの管をつけられていた。それを見たとたん、また泣いてしまった。とにかく奥さんがかわいそうで仕方がなかった。奥さんも泣く俺を見て静かに涙を流していた。
それから4種類の抗生物質を使った治療が始まり、奥さんは日ごとに回復していった。2日目は私の名前も言えるようになり、3日目には先生の質問にもゆっくりカタコトで答えるようになった。さらに数日経ち色んな検査も終わり、原因が生の食べ物からバクテリアが入り、それが脳の方に行ってしまったという事がわかった。奥さんは肉はほとんど食べないので、チャイナタウンで食べた魚の刺身に違いないと言っていた。
そして1週間以上経ちやっと退院する事になり、今度は自宅で抗生物質治療を続けた。しかし定期的にひどい頭痛がまだ続き、しかも今度は右半身が麻痺して全く動かなくなるという事態が起こった。3日ほど様子を見てみたが容態は悪化する一方で、また救急車で病院へ戻る事になってしまい、また再検査が始まった。そしてMRI検査で、左の脳が腫れていて、そのせいで右半身に麻痺が始まったという事がわかった。
その後も抗生物質の治療と検査を繰り返したが、一週間ほどいしてついに先生達は手術をすすめてきた。どうやら抗生物質が効かないようなので、もっとひどくなる前に手術でその脳の腫れ物を切除しようという事らしい。奥さんもそれでいいというので、わたしも奥さんの判断に従おうと思い賛成した。先生はそんな特別で異例な手術ではないので、問題ないだろうと言っていたが、やはり場所が脳なので、わたしはとても心配だった。
手術前日は病院に泊まった。わたしは何もできないが、なんとか奥さんを安心させてリラックスした気持ちで手術に望んでほしいと思った。しかし心の中では、もしかしたら手術が失敗して、もう奥さんと話す事はできないんじゃないか、という不安で押しつぶされそうだった。それが伝わってしまったのか、奥さんも手術に向かうときは少し緊張というか、覚悟を決めたような顔をしていた。寝台車に乗って手術室に向かう奥さんの後ろを歩いているとき、まるで死刑執行に向かっている死刑囚のような気持ちだった。そして手術室に入って行く奥さんを見送ったあと、やはりまた泣いてしまった。やはり奥さんがかわいそうで仕方なかったのだ。もしかして、これで目を閉じたら、もう二度と起きる事はないんじゃないか、そんな事を考えているのかもしれないと思ったら、どうにも悲しくてしょうがなかった。
そして手術は6時間以上かかり、ついに奥さんが手術室から出て来た。奥さんは髪の毛を全部剃られ、頭に包帯を巻いていて、そのまま集中治療室に運ばれた。そして先生は、手術は成功したから大丈夫だよと言った。2時間ほどして意識が戻ったがまだ話せる状態ではなく、また眠ってしまったので、私たちもその日はすぐに家に帰った。
次の日の朝、病院に行くと奥さんは起きて笑顔を見せていた。それからは驚くほどの早さで回復して、普通病棟に戻り、よく食べ、よく話し、携帯も使い始め、昨日ついに退院して家に帰ってきた。もう頭痛もないし、30分くらいなら散歩もできるようになった。めでたしめでたし。
しかし今でも、奥さんの寝顔を見ていると、あの時の事を思い出し、せつない気持ちになる。わたしの奥さんは本当に運良く回復してくれた。しかし病院では病気で苦しんでいる人、手術室の前で心配している人、泣いている人をたくさん見た。なぜ私たちはこんなにも苦しまなければならないのか。愛すれば愛するほど、その人との別れは悲しくなってしまう。なんと皮肉なことだろう。出会いがあれば必ず別れもある、その事をみんなわかって生きているのだろうか。私は今のまま生きていたら、本当の別れが来たときに立ち直れなくなってしまうだろう。だから少し生き方、考え方を変えなければと、心の奥のどこかで、そう思っている ような気がする。
2015/07/28
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